私が「死生学」などという聞き慣れない領域に手を染めた理由の一つは、誰も生まれて来た以上、老病死を免れないのに、あたかも自分だけは例外だとばかりに、心の準備もないまま終わりを迎えた人々を沢山見てきたからです。避けられない以上、それを納得して受け入れる方がずっと楽なのに。
臨死体験を別にすれば、おそらく誰も体験していない死は、やはり不安や恐怖の対象であり、苦しくても住み慣れた娑婆に執着するのも自然でしょう。
私事にわたりますが、三十路半ばの頃、なにか心のヒズミか、神経症を患い、しばし首を吊る枝ぶりを探して、さ迷ったことがあります。初めての娘が三歳を迎えたばかりで、妻子を置いて死ぬ訳には参りません。でも、そう思えば思うほど、追い詰められていきます。
夏目漱石の『行人』という小説に、漱石自身とおぼしき一郎という主人公が登用しますが、彼もまたその頃の私と同様、追い詰められており、苦しみの中で彼の吐くのが「僕の前に、出口は三つしかない。死ぬか、狂うか、門を敲くかだ」という言葉です。漱石はその三つの出口を、死は『こころ』で、狂は『行人』で、門を敲くを『門』で追及した訳ですが、私も漱石の顰に倣い、総持寺の門を敲いたのもつい昨日のようです。
昨今、生活上の様々な苦しみから、道に迷い、鉄路に飛び込む人が増えておりますが、狂うということは、死ぬよりはるかに辛いからです。狂い切ってしまったらどうか分かりませんが、狂っていく自分を、もう一人の自分が見つめている恐怖は、想像を絶します。
そこからの救済を求めるのが「門を敲く」という宗教的行為といってよいでしょう。では、漱石は救われたのでしょうか。彼の最終目標は、言わずと知れた「則天去私」ですが、多分彼もその目標を目指して、終生歩き続けたのだと思います。
ただ、文字通り血を吐きながら歩き続ける中で、多分確実に視野の深化と拡大を経験したのだと思います。死や狂に耐えうる世界観・人生観の獲得です。漱石と比較するなんて痴がましいですが、私があの時狂い死にしなかったのも、神仏や幾多の善知識から与えられた智慧のおかげです。
それでは、生老病死の苦しみからの解放は第三の出口、すなわち宗教を求めるしかないのでしょうか。信仰薄き人々は救われないのでしょうか。
言うまでもなく、人の生き方は人の老い方や死に方と深く関わり、またそこには、それぞれその生きた時代や社会の状況や文化が刻印されるといってよいでしょう。
たとえば、一時代前の死因は結核やコレラでした。だからショパンは結核で死に、チャイコフスキーはコレラで死んだのです。彼らもまた時代の病で死んでいったということであり、そこには何の不思議もありません。
とすれば、私たちにも今、時代の病である癌で死ぬことを免れる持続性は誰も持ちません。死に方を選べない以上、私たちに許されるのは納得して死ぬこと。病や死と和解する心の自由さです。
人はみな癌のように長く苦しむのはゴメンだ、コロリと死にたいと望みますが、癌死も捨てたものではありません。なにより癌は対話できる時間的余裕を与えてくれます。家族と友人たちと、そしてなにより自分と対話できる病です。自分の来し方、家族の行く末を考える余裕を与えてくれます。自我を押し立てて生きてきた、これまでの生き方が相対化される生の転換点です。
そのように死んでいったサムライの例を一つ。癌のもたらす精神と肉体の苦痛に対して、俳句というたった十七文字で立ち向かった、江國滋は次のように、死を受け入れていきました。
立春の 翌日に受く 癌告知
残寒やこの俺がこの俺が癌
という驚愕と絶望が
春暑し 傷痛し 胸苦し
という三重苦を経ることで、俳句のもつ諧謔性、すなわち自己と客観視する余裕が生まれてきます。やがて、
六月や 生よりも死が 近くなり
目にぐさり 「転移」の二字や 夏さむし
という絶望の深まりとともに、次のようなユーモアも生まれてきます。
断末魔とは これのことか
ビール欲し
死に尊厳なぞというものなし残暑
と、ここでは生と死を相対化する心の柔らかさも芽生えております。ともすれば自己憐憫の中で涙にくれる癌患者の中で、十七文字のみを頼りに、ギリギリまで癌と、そして自分との対話を続けた江國氏の辞世の句、
おい癌め 酌みかはさうぜ
秋の酒
と、癌も身のうち、自分の息子のようなものなら、せめて生きているうちに酒でも酌み交わそうぜというのです。
人生いろいろ。死はそれまでの生が試されるときです。なれば悲喜こもごも、すべてを味わい尽くして、自分の老病死とたっぷり対話して去っていきたいものです。