「ホリスティック」の考え方をベースとした活動が活発に展開されています。なかでも、
「ホリスティック栄養学」は、日本でも大きな注目を浴びはじめています。
ナターシャ・スタルヒン ホリスティック栄養学修士 一般社団法人 日本ホリスティックニュートリション協会 理事長
病気でなければ健康?
食品主体ではなく、人の側から考え、個体差を重視するホリスティック栄養学は、従来の栄養学とさまざまな面で異なります。その違いを生みだす根底にあるのが、「健康観」の違いでしょう。
従来の栄養学においては、現代医学の考えかた同様、病気ではない人は、すべて「健康」とみなします。
病気でないから健康と一括りにされる人のなかには、気力も体力も充実し、活力にあふれ、最高の健康状態の人もいるでしょう。でも、疲労困憊、朝おきられない、あっちが痛い、こっちが不調だと、辛い思いをしている人もいます。
逆に、健康診断などで検査にひっかかることなく、自分は健康だと思い込んでいながら、突然死んでしまう人も……。
突然死の死因のほとんどは、脳血管疾患や心筋梗塞などの循環器疾患。本当に健康な人が心筋梗塞などを起こすはずがありません。
健康はレベルで考える
こうしたことから、「健康はレベルで考えるべき」という発想が生まれてきました。
たとえば、これ以上ないという最高の健康状態、オプティマルヘルスを「10」とすると、ほとんど悪いところがない高いレベルのウエルネスが「8」、ときどき疲れがでる、便秘するなど、低いレベルのウエルネスが「6」、グレーゾーンが「4」、生活習慣病を発症していれば「2」というように…。
「病気」と「健康」は対立するものではなく、連続しているものと考えると、病気であっても、ある程度の健康は存在する・・ただ健康のレベルが低いだけということになります。
命のあるかぎり健康は存在し、死ぬときにはじめて健康レベルが「0」になる。健康を完全に失ったときが「死」ということです。
生命は確実に、10から0(死)に向かっていきます。
そのスピードを最小限に食いとめる。すでに健康レベルが低下していれば、そのレベルを高める。病気を予防するというより、もっと前の段階で、より高いレベルの健康を目指す。それも極限まで高める努力をする。
それこそが本当の意味での健康管理であり、ホリスティック栄養学でいうところの、「オプティマルヘルスを目指す」ことなのです。
個体差も重要事項
「人の側から考える」「健康をレベルで考える」ということは、ホリスティック栄養学が、「個体差を重視する」栄養学であるということでもあります。
私たちは自分の親からそれぞれ異なった遺伝子を受け継いでいます。その遺伝子にインプットされた情報をもとに、細胞内では各種タンパク質が四六時中つくられています。親譲りの遺伝情報は一人一人違うので、つくりだされるタンパク質は個体の違いを生みだします。
十人十色、体の違いがあるにもかかわらず、誰もが同じように、国が定めた、「栄養摂取基準量」を守ってさえいれば健康になれると考えるのは、無理があります。
実際、水溶性のビタミンの必要量は、人によって100倍もの差があるといわれます。つまり、ビタミンCの1日の摂取基準100mgで健康を維持できる人もいれば、10g摂る必要がある人もいるということです。
人は誰でも遺伝的に何らかの弱点を抱えており、その弱点をカバーするためには適切な栄養摂取が必要になるのです。
ホリスティック栄養学=菜食主義ではない
アーユルヴェーダや中医学では、経験の蓄積による英知によって巧妙に体質を分類し、それぞれにあった食事指導やハーブ類、漢方薬の処方などがおこなわれます。
ホリスティック栄養学でも同様に、体質をいくつかのタイプに分け、それぞれのタイプにあった食事法を含めたライフスタイルの提案をしていくことがあります。
こうしたボディタイピング法などをうまく活用しながら、一人一人にあった方法で、オプティマルヘルスを目指します。
ホリスティック栄養学が、「菜食主義」あるいは「生食」をすすめる栄養学と思っている人も多いようですが、それは違います。
ホリスティック栄養学では、精製された食品や加工食品を避け、よりナチュラルな全体食(Whole Food)の選択を基本としていますが、野菜や果物のみならず、魚介類や肉類などのタンパク源も、体のために不可欠な栄養素と考えます。高温調理こそ避けますが、生食オンリーということもありません。
私たちの体を構成している細胞の一つ一つが最適に機能するためには50種類以上の栄養素が必要とされます。菜食のみ、生食のみのような極端な食事法を長期間つづけることは、体の合目的性に反することになってしまうのです。
ホリスティック栄養学との出会いが、施術者である皆さまはもとより、患者さまにも、オブティマルヘルス(最上級の健康)と幸せ(ハッピネス)をもたすことを願っています。