失われていった生と死の文化

金山 秋男 明治大学死生学・基層文化研究所代表

あけましておめでとうございます。
これから、この連載ページを担当させていただきます。主として、いのちやたましいなどをキーワードにしながら、読者の皆様と、まるで対話しているように、人生の生老病死を考える場にしたいと考えておりますので、よろしくおねがいいたします。明治大学死生学・基層文化研究所代表 金山 秋男戦後、特に高度成長や所得倍増の掛け声の中で失われていったものに「原っぱ」、「火鉢」、「卓袱台」、「縁側」、「お使い」、「夜なべ」、「素足」などがあります。おおよそ暮らしの匂いや色や音を想起させるこれらが姿を消したのは、私のおぼろな記憶では、大量生産や大量消費が始まった1970年頃からでではないかと思います。暮らしの時間と空間と人間から、何か大切な「間」というものが失われていったような気がします。
少なくとも、貧しさの中で、隣人たちと暮らしの実質を分かち合わねば生きられなかった時代には生活に即するようなものやことばが息づいていたように思います。
その原因の一つとして、生老病死が暮らしの表面から消えたということがあげられるでしょう。それはすなわち、生老病死にまつわる文化が失われたことを意味します。それらが文化として継承されていれば、いのちへの畏れや愛しさなども共有されていたでしょう。社会には規範という枠組みがあるように、文化にも型(様式)というものがあります。私たちが失ったのは、生老病死の文化としての型にほかなりません。
たとえば、死にもそれにまつわる作法や儀礼がありますが、それが失われるということは、文化としての死が、そして生が消えていくことを意味します。また、生と死の文化が消えたということは、どう死んで(生きて)いったらいいのか分からなくなったことであり、私たちが死を了解し、死と和解する手立てを失ったことを意味するのです。
戦後もしばらくは、だれかが病気になれば、病人のために一間空けるか、狭い家なら衝立で仕切って、そこを病室にして、家族全員が病勢の変化に一喜一憂し、病を共体験したものです。病人のいる家はどこかひっそりといており、私たち子どもも、そのまわりで大声をあげて遊ぶということはしませんでした。
死も日常世界の避けることのできない重大事で、やはり愛する者の死をとおして、家族や友人たちも死を共体験し、それによってこそ生とは何かを確かめることができたのです。つまり、死があるからこそ、そこに生のありがたさもあったのです。死にゆく者は家族に感謝して今生の別れを告げ、家族も愛する人の死を目の当たりにして看取るという光景はいたるところにあったのです。

ところが、老いも病も死も今では家庭からほとんど消え、今や施設や病院や葬祭業者の専管事項にすぎません。少し重い病人が出ると病院にあずけられ、そこではかつてのように、体に触り、目や舌や脈を診るというような人間的接触は地を払い、すべては機械から出てくるデータや数値で処置が決められるのです。
かつては、病も死も、なにより主体である病人や死者にとっての一大事であったはずですが、今ではその主導権は完全に被管理者たる患者から管理者たる医師や看護スタッフの手に移ってしまっているといってよいでしょう。遺体は直ちに霊安室にエレベーターで降ろされ、そこで形ばかりの家族との別れをした後は、葬儀社のマニュアル通りに形式通りに処理されて、片付けられていくのです。一体、死はどこに行ってしまったのでしょうか。
医師や看護スタッフにとっては、患者の死は単に職業上の一つの出来事にすぎませんが、今では家族にとっても、自宅で肉親の死に行くさまを目の当たりにして、苦痛を共にしないで済んだだけ、労力的、心理的負担から免れたとういう状況になってしまっているのです。
このような状況の中では、死に行くも者も、自分自身のかけがいのない死を、しっかりと見つめ、受け入れていけるはずなどありません。私の見聞した限りでも、そのように自分の死を了解し、死と和解できた例はほとんどありません。たいていは、自分の死を納得しないまま、医師が医療技術にかまけている間に死んでいってるように思います。病人は患者になってはなりません。あくまで病人としての矜持を持ち続けねばなりません。同様に老人も年を取ることに気後れしてはなりません。次の歌のように、益々いきいきと生きていきたいものですね。

一生を一夢と言へど七十路に
見残る夢のまだまだあるかな
伊藤 篁秋

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